感情理論「同一視」

コドモは英雄の物語をよんで英雄になったつもりになる。われわれは感情のうえで主人公になって、ハッピーエンドのストーリーで満足する。このように、他のものと自分を同一とみなすのが同一視である。

ときには母親に愛着を感じてきた男の子が結婚するとき、母に似た女性を選ぶ(このような男は平均して、他の者より幸福だという調査もある)場合も同一視と称することもあるが、ふつうは、自分を他のものと混同することをいう。同一視に摂取(とりこみ)と投射の二種がある。

日本人は日本の選手が勝ったとき、喜んだり、自慢したりする。選手が勝ったので自分が勝ったわけではないが、この選手は(自分の)選手である。このような自我の拡大による同一視が摂取である。他人が悲しんでいるとき、自分も悲しくなるというのは、共感と称せられているが、共感の場合には多かれ少なかれ、同一視がある。

摂取が人間の態度や性格を変えることがある。医学を学んでいて、先生の口調を用い、診察の仕方、さらに聴診器の持ち方まで先生に似てくるものがある。これは模倣であるが、この種の模倣を行なわせるのは、先生と自分の同一視であり摂取である。

コドモが親と自分を同一視し、親の考え方、感じ方、行動の仕方をそのまま取りいれることが、コドモの性格を形成する最も重要な要素になることを、精神分析学派は強調する。他方、親がコドモを自分と同一視し摂取することは、コドモの入学を、自分が入学したのと同様の気持で喜ぶような場合にみられる。

摂取が自己の拡大(自分の学校、自分の国をも自分とみなす)であるならば、投射は、自己の縮小という形をとった同一視である。自分にケチという性質がある。これを認めたくなくて、これを他人の性質とし、他人をケチだというのが投射だからである。

ある15歳の少女が男からキスされようとした。彼女は抵抗して、これを防いだ。だが、心のなかには「キスされたい」という欲求もあった。ただ、はずかしさがこれを抑圧したのである。この直後から、彼女は「あの人にキスされた」といい出した。自分がそんな願望をもっていることを認めたくなく、他人のせいにしたのである。

精神分析で投射というのは、したがって、第一に、適応するための動きで、欲求不満の解決のためとか不安を軽くする目的のものであり、第二に、行動のほんとうの動機を抑圧して、これを他人によるものとみなすものである。しかし、この二つの条件をみたさぬ投射もあると主張する人もあろう。

第一は、自分が愉快なときに、他人も愉快だと感ずるときや、自分をみじめだと思うときには世の中も暗く思われる、というような場合の「投射」であって、これは自分の気持を他人のものとするものである。

はっきりしない図をみせて、その解釈の仕方で心の中の傾向をさぐろうとする「投射法」の場合にも、目的の認められないものもあるが、共感のときは、自分の欲求不満や、これに基づく不安の解決のためではなく、自分を守ろうとする目的(防衛的性格)を持たぬように思われる。

一般にフロイト学派は、このようなものをも目的をもったものと解釈をすることが多い。自分だけが愉快なのに他人が愉快でないのは申訳ないように感じ、この気持から逃れたくて、他人も愉快だとみなすというのである。

しかし、愉快なときには、見るもの聞くものが愉快に感ぜられるのであって、その気分に支配する反応(全情反応)を、ことさら願望で解釈するのは正しくない。第二に、汚職をしている役人が「みんなやっていることだ」というような例のように、抑圧されぬ動機によるものも投射といわれる。この場合には自分の道徳的不安を軽くするという意味は存在しているが、ほんとうの動機が抑圧されているわけではない。