適応の力学「代償と昇華」

人間は社会に適応するために願望を変化させる場合があるとフロイトは考えた。彼は後に述べる精神的エネルギーの仮説によって、これを説明するのであるが、我々は、ここではこの仮説は一応、問題とせず、ただ事実だけを考察することにする。既に「無意識の心理」のカテゴリーで述べたように夢には「転位」という現象がある。人間を殺したい気持が抑圧され、犬を殺す夢が出てくるような場合であって、願望の目標が人から犬に代わったと考えられた。

昔から心理学で「類似連想」と「接近連想」ということが語られてきた。ある人の顔をみてキツネを連想するのは類似連想であるし、東京から東京湾を思い出すのは接近連想(地理的な接近)である。この類似連想によって願望が類似目標、接近目標に代えられることがある。戦時中タバコが無くなったとき、干した草の葉を代用にしたように、軍隊や寄宿舎で異性愛が満たされぬときには同性愛がこれに代わるし、恋人を失った人間がその恋人に似た異性を愛することがある。

子供のない女性が犬を可愛がって子供に対するのと同じ愛情を注ぐことは、我々がしばしば目撃することである。願望が接近目標に移る現象のうちには、(坊主憎けりやケサまで憎い)といった場合(リポーが転嫁とよんだもの)のように最初の目標が忘れられないことがある。坊主に対する憎しみがケサを憎むことで解消しない。

しかし目標が最初の目標の手段になっているときなど「手段の目的化」がなされて目標が変わることがある。金は幸福な生活の手段であるが時に金そのものが目標となって大金を抱いて大往生を遂げる場合である。

願望の目標が変わってゆくのは社会にとって悪い場合もあるが(異常性欲の場合のように)、かえって、ためになることもある。欲求が社会的な価値あるものに転じた場合に、この代償を「昇華」と呼ぶ。異性の裸体を眺めたい欲求は性的欲求であろう。後に述べるように、それだけで満足する異常性欲(スコポフィリー=のぞき症)は代償であって普通の性的欲求の代りである。異性の体を見ることは性的交渉への手段であるが、この手段の目的化に基づく代償である。

ストリップ・ショーは一般の人々が多少持っている右の傾向を満足させるものであろうが、ステージ・ダンスが裸体に近い形をとるのは何故であろうか?ストリップ・ショーとその間に様々な段階は無いであろうか?彫刻や絵画の題材に裸体が使われているのは、どういうわけであろうか?

他の機会に性的活動と宗教的熱情との類似を述べたことがあった。そのとき性的象徴を使う未開宗教や性器崇拝のことは一般に知られているが、キリスト教でもマリアに対する讃美歌が恋歌であり恋歌が聖歌になっていることのあること、苦行中に聖像と交わる幻想を抱いた尼さんのあったこと、精神病者の宗教妄想と性的妄想が似ているばかりか同時に出現することも少なくないことなどを語った。

欲求が満足されぬときに、これが代償的に満足されるが昇華の場合も同じ現象だとフロイトは考えた。多くの宗教で宗教家が妻を持つことを禁じているが、これは性的欲求を人為的に昇脇させるためと解釈できるわけである。

もちろんこれによって宗教、芸術を全て説明するのは適当でない。宗教的熱情、芸術的熱情が昇華であっても宗教や芸術のうちには適応の力学「反動形成」で述べたような反動形成や逃避などの要素もあるからである。