感情理論「合理化」

とろうとして、手の届かなかったブドウに対して、キツネが、あのブドウは酸っぱいといったという話がイソップにあるが、これと同じような例は、われわれの日常生活に少ないものではない。

失恋した相手は、おしゃべり過ぎるとか、ケチンボ過ぎるとか判断される。入社しようとした会社に就職できぬとき、「この会社は、たいした会社ではない。民主的でない」などとけなされる。これが「酸っぱいブドウの論理」である。

これに対して、しかたなく結婚した相手についても、「のんきでよい、かえって気が楽さ」というような理屈をつける場合がある。「甘いレモンの論理」である。要するに口実である。これは他人に対してばかりか、自分に対しても口実になる。気やすめにするのである。

その点で抑圧と同じ役割をすると言いうるであろう。抑圧は忘れたいことを忘れるのであって、自分をあざむくことであった。クレッチマーは動物の擬態(動物が敵にあって死んだで不をするようなもの)に似たものが人間の行動にもみられること、ヒステリー患者が病気のフリをするような現象が、これであることを述べているが、さらに、抑圧も一種の擬態であって、自分自身に対する擬態だと主張したことは興味深い。

抑圧は自分で自分をごまかすこと、いやなことは経験しないつもりになることだからである。合理化も、やはり擬態の一種、「コトバの擬態」といえぬであろうか。