深層心理学の方法「了解法」(1-2)

上の例で、性的の習慣が原因でシカメツラが生じたというのは実験で確かめたわけでなく、多くの似た例を集めた結果、結論を出したものでもない。自分の気持から推察して、原因=結果のつながりを考え出しているのである。日常、われわれは、あの人が自動車に乗りたがらないのは、ひどい交通事故を経験したためだ、というような判断をする。他人も自分と同様の考え方、感じ方をするという前提にたって判断をする。

むろん、自然科学の場合と同様な仕方で、この因果関係を決定しようとする人もあるであろう。自動車事故の経験をした人の例を集める。そのうちから、自動車に乗りたがらない人が何パーセントいるかを調べる。全くそんな経験のない人のうちで、自動車に乗るのを嫌がる者が何パーセントあるかをしらべる。自動車事故をしたほうが、自動車にのるのを恐れる確率が多いという結論がでるかも知れない。

我々は統計の出来ない、ただ一回の事件について、主観的に自分を相手の位置において原因を考えるのが、普通であるが、この共感とか了解ということは、自然科学では極力排すべきものとされているものである。

ところが、人間心理を明らかにするためには、むしろ共感とか了解を積極的に用いるべきだという主張がある。デルタイ、シュプランガーなど「了解心理学派」である。自然は説明されるが、精神生活は了解されるべきものと彼等は考えた。

正統派の心理学においても了解すなわち主観的な解釈が行なわれていることは決して少なくない。ゲシュタルト心理学創始者の一人となったコフカはいう。

「今、我々がコトバの通じない中央アフリカの黒人の怒りの発作を観察することを考えたとき、我々はただ土人の「外部に現われた行動」を記述することに限らなくてはならないものなのか。彼は怒ってその相手の人間に向かっていると言ってはならないのか」

そして、コフカは動物の研究の場合でさえも、外部からの観察「機能概念」だけに限るべきでなく、その内部の休験「叙述概念」を問題にするのに神経過敏になる必要は少しもないと言い、行動主義者は客観的であろうとするあまり最も大切な所を捨ててしまう誤りを犯していると述べた。