深層心理学の方法「了解法」(2-2)

彼は決して了解をもって心理学の方法としようとしたのではないが「黒人が怒っている」という叙述の場合にみられるように、主観的にその表情の意味を了解してよいと考えているものであろう。

精神分析は了解を方法とする。それは一種の了解心理学である。アレクサンダーはこう書いている。

精神分析は昔の心理学と違って、精神状態を理解する普通の方法「常識」を洗練し、体系化したものである。その主たる手段は自分を相手の地位においてみる共感の方法である。他人の動作、顔の表情、声の調子、コトバの内容を観察すれば、その心に起っている何らかの考えが得られる。観察者と観察される相手とは共通性を持っているから、そこに了解が可能である。つまり双方が人間性をもつという共通性が本質的であり、それは心理学によって、はじめてとらえられる。」

「物理現象では、たとえばテーブルの上で動く二つの球にしても、その理解は目にみえる範囲だけで、次にどうなるかは、ある同一条件のもとで必ず転がる球を以前にみたことがなければ分がらない。しかし、人間の場合は自己観察によって行動の解釈ができる。つまり、同じ状態での自分の反応をみれば、他人の動機がわかるのである」

精神分析で分析する人と、される人が、何回も話し合い共感し合うことが出来るようになることが必要とされるのはこのためである。外国への旅行者が、その国のコトバができても最初はその国民の心理は全く了解できず、どういうつもりか、どんな感情を持っているか分からないが、しばらくするとその行動の意味を了解できるようになる。これと同じことが精神分析で要求されるのは、精神分析が了解心理学的方法を用いるからである。

了解という方法を非科学的だと決めてしまうことは出来ない。我々は、観察をするとき眼をつかう。しかし、知覚は眼の網膜像だけで生ずるのではない。それは脳髄の後頭葉にある視覚中枢に伝えられるが、それだけで知覚が構成されるものでもない。脳髄全体が関係する。感情も加わるし、過去の経験も入り込む。我々はパーソナリティー全体で物を観察する。

自然を観察するときには、なるべくパーソナリティーを排除しようとするが、人間の観察では、むしろ、これを積極的に使おうというのが、了解心理学や、その一種である精神分析である。

パーソナリティーは、一方において個人個人によって違うが、他方において共通の反応を示す。「あの女性は何度も男に騙されたので邪推しやすくなったのだ」といったような観察は、一人の個人だけの判断ではないからである。しかし、これが本当かどうか。了解とか解釈が正しいという証拠はどこにあるのか。

フロイト学派のうちには了解とか解釈という方法を用いながら、これを自然科学の方法と同じだと考え、解釈の正しさについての反省を欠いて勝手な解釈を行なう者が少なくない。これが、精神分析を科学と縁のないものにする原因になりやすい。