心的因果(4-4)

こう解釈すると最初、わからなかった子供の不思議な行動も了解できる。フルールノアは結論した。この夏、この子供は父・・・この父は学校の先生と同様、権威のある恐い存在だった・・・にかわって、彼が心から望んでいた母の愛情を独占したかった。現実はそれを許さなかった。彼は劣等感を感じ見捨てられたという印象をもった。そこで、周囲の情況も手伝って、あのような遊びをやり始めたのである。

母から自分を遠ざけた緑の虫・・・普段は学校の先生、このときは父親・・・を殺して、一時的に、先生や父と同様に力強い気分を味わうこと、ここに、その遊びの意味があった。無論、虫の頭を切ったり残りを地面に埋めたことなども、もっと追求してゆくことができよう、とフルールノアはつけ加えている。

偶然的で無意味だと思われた子供の行動に、心理的の原因があったわけであり、精神的の因果関係が、これで明らかにされたというのである。

フロイト学派の人々は、フロイトが精神現象をこのように因果的に説明したと信じ、新らしい科学の分野をひらいたと考える。しかし、このような場合の因果関係は、自然科学の因果関係と同じものであろうか。

重要な点は、この場合には、原因=結果の関係を繰り返して検討できないことである。「このような過去があったために、現在はこうなっている」というわけであるが、それは一回だけ起こったこと、繰り返すことのできないこと、すなわち歴史的因果(レヴィン)である。

レヴィンは原因=結果について歴史的概念と体系的概念を区別した。「木の下ではなぜ濡れないか」と考える。これは雨のしずくの落ちる方向や速度、木の葉の位置、自分のいる位置などで説明される。「この場合は自然科学的因果であって、時間の座標を逆にすることによって原因=結果を逆転することができる。」

しかし、別に「雨に濡れないのは、おじいさんが木を植えたからだ。この土地はあまり肥えていないが、特別に注意してこれを植えたのであって、そのために雨に濡れないのだ」と説明することもできる。おじいさんが本を植えたことが原因で、雨に濡れないことが結果である。「後者の場合の時間は、一定の”向き”をもっていて、逆転することがない。」

この二つの説明はレヴィン以前から自然科学的説明と歴史的説明と呼ばれていたものであって、すべての科学にはこの二種の因果的説明がふくまれている。

自然科学においても数学、物理、化学のような場合を除げば、歴史的説明が全くないわけではない。天文学でも一つの天体がいつ、どこにあったかというような、法則に還元できない側面があるし、地質学や生物学のような科学では、歴史的側面は、さらに重要なものとなる。法則は存在するがジュラ期はただ一回限りだし、ブロントサウルスは地上にふたたび姿を現わすことはない。