無意識の世界

精神分析が、まず第一に、無意識の世界を探る「深層心理学」を意味することは先にのべた。意識のない状態のうちには、神経の伝導とか心臓の動きとか、完全に意識を離れた身体内の現象で、その結果「痛みの伝導でなく痛みという感覚、心臓の動きでなく、ドキドキする感覚」だけが意識されるものであるが、これは「意識外」とよんで区別することにする。意識外は全く意識に上ることのないものである。

これに反して、ここで無意識というのは、何らかの方法で意識されうるものをいう。後にのべるように、フロイトは思い出そうと努力して思い出しうるものを「前意識」として区別し、夢のような特別の状態以外には意識化されず、それ以外には、催眠法や精神分析法を用いなくては意識されえぬもののみを無意識とよんだ。

精神分析は、無意識を精神活動の最も重要なものとする。一つのことを考えている人は、その事だけを意識しているにすぎないし、ある物を見ている人はその物とその周囲のみを意識しているにすぎない。しかし、その人は無数に多くのことを連想し、思い出すことができる。ある瞬間に感じていること、わかっていること「意識内容」より、思い出しうること「想起可能な観念」のほうが多いことは確かであろう。しかも、ふつうでは思い出せぬものが催眠などで表面に出てくることがあるから、無意識の世界は、ある意味できわめて広いものである。

第二に、無意識的のものは、意識の原因となりうる。後催眠現象−催眠状態中に暗示を与えておくと、あとでこの暗示通りに行動する現象については前にのべたが、この場合、催眠をかけられた人は、実行するまで、そんな考えを自分が抱いていたことを意識しないし、やってしまってからも、それを意識していない。

われわれの行為の、ほんとうの動機は、いつも気づかれているとはかぎらない。ジャネも無意識を問題にして、心の奥底「意識下」の考えが、ヒステリーの場合などには、日常生活に影響を与えることを認めていた。しかし、ジャネの場合にはフロイトに比べると、無意識より意識のほうに、はるかに重点がおかれていた。

無意識は意識の残りであった。ジャネは意識をもった活動では、精神内部の多くの傾向は統一されているが、この統一する力が弱まったときに、心の内部の傾向が「分離」して、無意識的傾向かあらわれると考えたのである。