無意識からの力「偶発行為」

精神の深層に無意識の世界が横たわっていることは、上にのべてきたが、無意識の存在は日常全く気づかれぬものであろうか。フロイトは無意識中の傾向か意識に影響をおよぼすこと、無意識中の傾向をしめすような行動が日常生活中に認められることを指摘した。

偶発行為

われわれが、考えなしに、やってしまうこと・・・鼻のさきに手をやるとか、昔の流行歌の一節を口ずさむとかいうような、無意味な、つまらぬ行為・・・を分析してみると心の内部の傾向が表現されたものであることが明らかになるとフロイトは主張した。

それは偶発的なものだが、無意識のうちの傾向をしめす徴候であって、「徴候行為」または「徴候=偶発行為」とよぶにふさわしい。

ジャン・ジャック・ルソーは散歩のとき、いつもある場所までくると、機械的に、回り道をしていた。この機械的習慣がどこからきたか、自分でもすぐにはわがらなかったが、結局、それはコジキをさけるためだった。ルソーは「追求することができるかぎり、心のなかに原因のわがらぬような機械的な運動は少しもない」とのべているが、「この”心”というコトバのかわりに”下意識””無意識”というコトバを置きかえるならば、まさに精神分析学説の根本が純粋な形でみとめられるであろう」とクラパレードはのべている。

メーダーのチューリッヒの知人は休みの日に、楽しい休日を過ごそうか、行きたくないが行かねばならぬことになっているルツェルンの知人を訪れようか、躊躇したのち、思いきって後者を選んだ。ルツェルンにゆく途中、乗り換えるべき駅で、朝の新聞を読みながら機械的に乗り換えた。そのうち、車掌が来て初めて、逆にチューリッヒに帰る列車に乗っていることを発見した。

ルツェルンにゆきたくないという気持、チューリッヒでその日を過ごしたいという願望の力は、彼の義務的の力よりも強かったのである。

最初の例では、散歩という目的のない行為を行なっていた場合なので、その行為はそれほどかき乱されたようにみえないが、コジキがいなかったならば、回り道はしなかったはずであるし、第二の例も、ふと、やってしまったものではあるが、乗りちがえをしているから、行為が、いくぶん、かき乱されている。

これらの誤りのうちには習慣というような機械的原因によるものもあること、たとえば、1959年になっても1958年といってしまうとか、特別の用事で別の方向にゆくべきなのに、毎日曲る習慣になっているカドをまがってしまうとか、いうものがあることは、もちろんである。

無意識的な力によって、行為がさらに著しくゆがめられた場合は、「歪曲行為」とよばれ、これをフロイトは「日常生活の精神病理学」のうちで詳しく扱った。なお、無意識の傾向かそのまま出現することは、この徴候行為の場合のほか、飢えた人が食物の夢をみるような場合にみられる。