無意識への力「完全な抑圧」1

無意識のうちにある願望その他の傾向が、日常の行為を支配することがあると述べた。なぜ、普段は、それらの傾向か、意識下に、われわれに気づかれることなく、存在しているのであろうか。

ジャネはフロイトに先立って無意識を扱い、心のなかの傾向を問題にしたが、普通の場合には、精神が緊張していて「精神的緊張力 tension psychologique がある程度存在していて」、無意識的傾向を統制しているため、人格が統一を保っているのだと考えた。睡眠などでこの緊張が緩んで、精神的緊張力が弛緩(しかん)すると、これに圧えられていた無意識的傾向が頭を出すというのである。

フロイトは、これに反して、精神内部の力の衝突を考えた。彼によると、心のなかの傾向か、他の傾向を圧しつけて、意識にのぼるのを防ぐ。特に心の内部の力の衝突で問題になるのは、不快な経験や原始的(性的などの)経験が、これと反対の力によってブレーキをかけられ、無意識に追いやられる場合である。これは抑圧と呼ばれる。

抑圧する力が、無意識的傾向「抑圧される力」よりも、はるかに強く、後者を無意識に追いやる場合があるし、それほど強力ではないが無意識的傾向を、ある程度、変形させる場合がある。

完全な抑圧

不快な記憶は抑圧されるが、抑圧が強いときには、この経験は忘れられるとフロイトは考えた。記憶の忘却はエビングハウス以来、実験的に研究された。無意味な綴り「メヌ、タノ、モホといったような」を八つとか十五とか並べた系列を、いくつもつくって、この系列を二度つづけて誤りなくいえるまで学習させ、それに要した時間をはかり、それから一時間、九時間、一日、二日、六日、三十一日といった期間をおいて、も一度、完全に学習させ、二度つづけて誤りなくいえるまでの時間を計る。

忘れていなければ二度目には速く学習ができるから、これで忘却率をはかることができるし、これをグラフにあらわし、いわゆる忘却曲線なるものがつくられる。これらの研究は、記憶それ自身が弱いため、または時間とともに弱まるために、物を忘れるという結論をしめすようにみえた。思い出すことができぬというのは、他の力によるものでなく、記憶そのものの無力による「内在する原因に基づくもの」と考えられた。

しかしながら、これは記憶という働きを精神全体の働きから切り離した考えである。ときに、そのような研究も必要であろうが、現実には記憶も欲求や感情などと無関係ではない。また、この種の研究では記憶という問題は内容「どんな物事を記憶するかということ」と離れて考えられているばかりでなく、内容となるべく無関係なものにしようとして、無意味な綴りを使って研究したのである。