心的因果(1-4)

日常生活のうちで、われわれは全く偶然的としか思われぬ行動をすることがある。何の気なしに顔をなでる、口笛をふくというようなことから、ふと物忘れをするとか書き損いをするとかいったことである。

こんな行動には原因はないのだろうか。従来はこんな原因を詮索することは無意味だと考えられていた。もし、強いて考えるならば脳髄に何らかの変化があるためにちがいないと信じられていた。

しかし、このような行動の内には、明らかに精神的原因によるものがある。ときどき口笛をふいていたため、機械的に口笛をふく。不愉快なとき、この気持を紛らわそううとして口笛をふくのが、習慣になって、不愉快を感ずると、すぐ口笛をふいてしまうというようなこともある。

これらは生理的にも説明できるかも知れぬが、フロイトは、さらに進んで

1)心の内部に動機のない偶然的、機械的運動はありえず、必ず過去の事件によって決定されていること「心的決定論

2)外に現われた徴候の原因が自分自身にも知られていない場合があること「原因の無意識」

を主張した。

自然科学は因果関係を求める。日蝕のおこるのぱなぜか、リンゴが落ちるのはなぜか、火薬が爆発するのはなぜか、酒をのんで酔うのはなぜか、というように結果に対する原因をさぐる。同じように、機械的、偶然的と思われる行動の原因を求めることも、やはり科学の発展であろう。

しかし、一体このような心理的原因を自然科学の場合と同様に探究してゆくことが出来るものであろうか。自然科学では実験をくり返して、この原因があればこの結果があるという結論を出す。あるいは、観察によって、この原因があるときには、いつもこの結果が生ずることを認める。心理的の原因日結果が果して同様に確認できるかどうか。精神分析はこれができると主張し、自然科学と全く同じ方法で因果関係をつかむのだと断言するのである。

この点を最もはっきりとのべているのはダルビエズである。彼は自然科学と同様に原因をつかむことが可能であることを、つぎのフィスターの例によって論ずる。

フィスターの弟子の一人は奇妙に顔をゆがめる習慣をもっていた。彼は指でその鼻をつまみ上げていた。ある日、フィスターは教室で「罪は汝の門にあり」というテキストについて説教をしていたとき、精神分析のちょっとした実験をしてみようと決心した。何気なくその青年のほうを見ながら、嘘、詐欺、盗みなどの誘惑について語った。生徒は動かなかった。彼は不幸にして猥褻な言葉と行ないがあったとつけ加えた。すると突如、青年の指は鼻さきをつついた。

時間の終りごろ、フィスターは実験をくりかえした。結果は同じだった。9ヵ月後、その青年は自らフィスターにあいにきて、その助けを求め、また彼がマスターベーション(自慰行為)をしていることを告白したのである。鼻をつまむ行為がこれによって説明された。精液のニオイが不快だったのである。