心的因果(2-4)

ダルビエズはこの精神分析的解釈を検討して、これを普通の科学的推理と比較した。精神分析の仮説は、この習慣が意味「心理的原因」を持つということ、それが、おそらく苦痛な経験・・・無論、なんらかの精神内部の葛藤・・・によるということである。

この仮説の証明のために分析者は、まず、さまざまの誘惑について語ってみたが、何の反応もなかった。つぎに性的誘惑の話をし出すと直ちにシカメツラが生じた。これは仮説を証明する第一の根拠である。さらに、同じ実験を授業の終りころに再び繰り返したが、結果は同じであった。これは第二の根拠である。マスターベーションを行なっているという告白は、性的な仮説が無根のものでないことを示す第三の根拠になろう。最後に、青年が精液のニオイによる不快な感じを打ち明けたことは第四の根拠であって、これがこの心理的原因を了解させるであろう。ここで二つの解釈のいずれかを選ばねばならない・・・これら四つの点は、単なる偶然の一致であるか、あるいは、精神分析的解釈をみとめて、このシカメツラを、マスターベーションが心のシコリになっているためだと考えるべきかである。

もう一つ他の例をあげて検討しよう。これはフルールノアによる例で、ある青年の思い出である。

この青年の9歳のときの夏休みの経験である。そのとき彼は田舎に滞在していた。彼はおかしな遊びを考えついたのである。それはまずモグラの穴に石板と小石で小さいトサツ場をつくり、そこにバッタを捕まえてきて、尖った石で、その頭を、ちょん切るという遊びだった。それから、そのバッタの体をロにいれてしゃぷり、時にはアシを食べたのち、穴のなかにその残りを埋めた。

彼はこれを始終、儀式のように同じやり方でやりつづけた。このひとりでに思いついたことが、たった独りで遊ばねばならぬときの時間つぶしには一番楽しかった。

全く奇妙な遊びである。彼は何故こんなことをしたのか、自分でも気づいていなかった。しかし、この子供が似た遊びがあっても、この遊び以外のものには夢中にならなかったこと、ある夏の間だけこれをやったことは、原因を絞るのに、かなり役に立った。

彼の連想はこうである。バッタは緑色を連想させた。「たとえば、コオロギなどをやっつけようとは、絶対に思いませんでした。犠牲にする動物は緑色でなくてはならなかったんです」と彼はいった。

緑色は直ちに、ある学校の先生の思い出を思いおこさせた。この先生に彼は、ひどい反感を感じていた。彼はいった「いつも、この先生の話をきくと、顔をあわせていないときでさえ、この先生は・・・私が服従しなくてはならぬ力を表わしていて、初めから嫌いなんてすが・・・緑色にちがいないと思っていました。しかし、なぜそうなのか、私にはわかりませんでした」黄色い声ということがあるし、潔白とか腹黒いとかいう言葉があるように、この子供は、先生に緑の感じをもったのであろうが、原因は不明だったし、分析もそれを明らかにしていない。