目的行動

人間は生物と同様、つねに環境に適応している。食物を求め、危険からのがれる。自分を守ったり種族をふやすのに都合のよいような行動をする。心理学は適応を研究する学問だという者さえあるが、適応という考えが、少なくとも今日のパーソナリティー(人格)心理学や臨床心理学の根本をなしていることは否定できない。

ところで、無生物では適応ということがない。温度の上り下りにしたがって温度計は上り下りするが、これは、べつに、温度計のために都合のよい動きではないからである。生物や人間はいろいろな活動をするが、全休としてみると、目的にむかっている。この目的にそった行動が適応である。

人間や動物の行動を目的を無視して研究してゆくこともできなくはない。刺激と反応という関係だけに注目してゆくこともできるし、そのような立場だけが、ほんとうの科学的心理学だという主張もある。生命や精神を物理学と化学で説明してゆくのが、ほんとうの科学だ、という見方もある。

しかし、人間や動物を、目標(食物、異性、勝利、人間では、さらに名誉とか真理とか)を追求してゆくものとみることもできるし、このような立場の心理学を考えることも可能である。これは〈目的心理学〉とよばれるが、精神分析は一種の目的心理学である。

マクドゥーガルは目的心理学に二種のものがあると主張した。一つは、快楽主義に基づくもの、他は、これに基づかないものである。前者は快を求め、不快をさけてゆくのが適応だという考え、後者は快を求め、不快を避けようとするだけが適応ではないという見方である。

この議論はここで問題外として、ただ、フロイト心理学が少なくとも、初期の深層心理学が前者に属する目的心理学であること、多くの適応行動の場合に、快の追求ということも問題になること、適応の心理学は精神分析学派の業績または刺激によることが著しいことだけを指摘するにとどめたい。