不完全な抑圧

フロイトが夢に意味があること、夢が願望の実現であることを主張したことは一般に知られている。フロイトは、のちに、機械的にもと体験をくり返すだけの夢があることを認めたけれども、夢を願望の表出とみなすことが、彼の根本的な考えであった。

フロイトがこれを証明するために、1.願望がそのまま実現する場合。の夢をのべ、ついで複雑な夢の分析におよぶ方法、2.願望実現では説明できぬと考えられるものを分析して、これらの夢にさえ願望実現がみられることを主張する方法を用いたことは、前に紹介した通りである。しかしながら、ふつうの夢で、その原因になっている願望がはっきりと認められないのはなぜであるのか。

まず、無意識の機構によるものと考えられる。夢の考えは、ふつうの考えと同じ形で進行しないから、願望の表わし方がちがってくる。たとえば、二つの心像がいっしょになる「圧縮」や、感情が一つの対象からべつの対象にうつる「転位」や、抽象的なものを具体的な形にする「戯曲化」や、男性性器を棒とかサオとかで表わすような、一般的な転位である「象徴化」などによって、夢や無意識の思考は、日常の思考によっては了解できぬ形式になる。

ふつうの意識状態(めざめているとき)の思考は、合理的であるが、無意識の思考は合理的でなく、意味のわからぬものになっている。しかしながら、フロイトが、とくに強調したのは、むしろ、他の力(抑圧)による変形という考えである。この力によって、内容がゆがめられる。転位および象徴化というものも、じつは、このようにして、ゆがめられたものである。

人間を殺すことは社会的に許されない。コドモのときから、そのような傾向は許すべからざることとみなされてきた。それで、人を殺そうとするならば、ひじょうな苦痛を伴なうから、夢のなかでも抑圧が働いて、たとえば人間へのにくしみが、イヌにむけられる夢をみることになる。

フロイトは戯曲化や圧縮は抑圧というような力を仮定しないでも説明ができると考えたが、転位の場合は、この例で明らかなように、その原因を抑圧にもとめたのであった。

完全な抑圧の場合には、好ましくない願望は意識の表面には夢を現わさぬが、抑圧の力が不十分なときにはこれが頭をもち上げてくる。そこで願望と抑圧という二つの力の衝突の結果が現われる。

「夢」に引用した、ある未亡人の例では、夢のなかで最もけがらわしいと考えられるコトバがはっきり表現されず、つぶやきの形になっていた。これは偶然なのか。フロイトはこれを偶然でなく意味のあることだとした。それは道徳感情が目のさめているときより弱まってはいるが、全くなくなってはいないためであって、この力によって性的な傾向にブレーキをかけるのである。

それは、かつて、新聞、雑誌などに加えられた検閲と同様であって、不都合なものを削除することであるし、あるいは、削除されることを予想して別のコトバを用いることに相当する。それでフロイトはこれを検閲とよんだ。

抑圧は一般に、ある傾向か他の傾向を抑制し、これを無意識においやることであるが、このうちで、とくに道徳的なものが検閲と称せられる。

けがらわしいから考えまい、いやらしいから考えずにおこう、というのは意識的な作用(抑圧と区別すれば、抑止)であるが、フロイトは、けがらわしいもの、不快なものは、ひとりでに(無意識的に)頭に浮んでこないことが多いと考えた。意識に入るまえに抑圧が行なわれるというのである。

これはフロイトの独創といってよい。のちにフロイトは検閲(道徳的抑圧)正確には検閲を行なうパーソナリティーの部分を「超自我」とよんだ。検閲は心の内部の抵抗であって、忘れてしまった不快な記憶や観念が思い出される(意識化される)ときには、つねにみられるが、同じ内的抵抗が、夢を変化させる力となると同時に、精神分析を行なっているあいだに、連想を妨げる力となって現われる。

精神を分析して、つぎつぎに頭に浮ぶことを連想させてゆくとき、これがとぎれて、つぎの考えが出てこないことがある。ふつうは自分でもなぜ連想がでてこないのか気づかずにいる。このような現象が「抵抗」とよばれるのであるが、抵抗の原因は何か。フロイトは思い出したくない気持が抵抗となるものと考えた。つまり、分析のときにみられる抵抗と、願望を変形させる力は同じものだと結論したのである。