深層心理学の方法「連想法」(2-2)

ポンドから最初に連想したのは「ドクター・ポンド」で、フリンク自身もドクターだが、事件は池「ポンド」の淵で起こったし、ピッチャーは投げる役割をする。

第二の連想は「インディアン池」だが、これはフリンクが石を投げて犬を死なせた池と同じ町にある。

第三の連想は、フィッシャーという人だが、この人もピッチャーであって投げることに関係した連想だし、フィッシャー(魚をとる人)が水に縁のあること、フィッシャーとピッチャーが発音の似ていることも考えられる。

第四の連想は、ポンド・エキスさらに、そのうちに含まれているハマメリスだが、これをピッチングのときに腕にこすりつけている。

第五の連想は、投げること、水に落ちること、といったものと関係しているが、自分自身をブタ(pig)と同視している。ところが、この犬は、ジップ(Gip)う名であったから、pigをさかさまにした名前であった。

第六の連想は、ポンドから再出発したものだがponder(考える)という言葉は(重さ)と関係がある(重さの単位ポンドと同じ語源)。

第七の連想は、ハムレットの言葉だが、この中にも投げるという意味にも用いられるcastという言葉が出てくる。

第八の連想は死んで井戸に投げこまれたブタの話であるが、このpig(ブタ)もGip(ジップという犬)と同様に殺されたし、水中に没した。

これらの事実は一体、何を示すのか。第一は、ポンドの忘却と何の関係もない連想だとみなす立場である。第二は、ポンドという名を忘れたのは、心的原因があって、右の連想には、すべて精神的意味があるという立場である。

ブロンデルは自由連想法で心の内面にあるシコリを見出しうるということを否定し、自由連想は、いわば散歩してゆくようなもので、一定の方向を持つものではないという。右側に恐い犬がいれば左の道に入り、左の道が悪いために右側の通路を選ぶようなものだというのである。分析学派は、これに反して散歩していても、おのずから足が美しい景色の方に向かうように、連想は一定の方向に向く傾向があり、連想が進むに従って根底にあるこの一定傾向があらわれるという。

ダルビエズは連想法が科学的に因果関係を探るものだということを示すために、関連の無意識という考えを提唱した。

山から川を連想する場合、なぜ川が意識のうちに出現したかは無意識的である。山から海が連想される可能性もあるし、山から森が連想されることも考えうるのに、どうして川が連想されたかは、自分では、わからないのである。山も意識されているし、川も意識されているが山と川の関連は意識されていない。

このように「関連の無意識」があって連想は意志によって行なわれるものでないから、山→川→海→太平洋・・・というように、連想を続けてゆく場合の連想の系列は、自然現象のように研究することができるというのである。

意志的な努力を用いて行なう思考の場合には、自然現象と違って、どう展開してゆくかは、そのとき、そのときで、いつも違うが自由連想では意志が入り込こまないから観念の続きき方は、海流とか気流とかの場合と同様に、ある程度安定したものとして扱える。さらに、事実、精神分析の経験によって、この連想の流れが、一定方向を持っていることが明らかになるというのが、精神分析学派の主張である。

多かれ少なかれ、このように、連想に方向があることは認めることができよう。しかし、連想がすべて意味のあるものばかりではなかろう。前例のGip→pigなど偶然的なものと考えてよいかも知れぬ。

最後に、これが表出の原因だということは、何によって知りうるか。ここに「自然現象の場合と同様の因果関係」とみなすことのできぬものがあるし、精神分析学派が無意識的に、主観的な解釈を持ち込んできていることは、否定できない。

前にのべたように了解心理学的方法も心理学においては、ある役割をもっている。ただ、それが「了解」であることを意識しておくべきであって、これを自然科学の「因果」と混同することは間違いであろう。