無意識の性質(3-3)

ある若い女性の夢である。青年が暴れる褐色の小ウマに乗ろうとしたが、三度失敗し、四度目にやっと乗ってゆくことができた、というきわめて簡単な夢である。象徴法によると、乗馬は性交を意味する。後にのべるように、夢は願望の実現であるから、この女性は性交を望んでいることになる。

このような解釈は、いかにも勝手なものと思われるが、この場合には、たまたま、連想法で同様の解釈がなされたのである。ウマについて連想を求めると、彼女自身がウマというアダ名だった。フランス語を使って、シュヴァルとよばれていた。彼女は、夢のウマのように活発で、小柄(夢のウマは小ウマである)、頭の髪の色は褐色(夢で、ウマは褐色だった)であった。またウマに乗った男は彼女のボーイ・フレンドであった。

この連想のあとで彼女は告白した。彼が彼女の体を三度要求したこと、これを三度とも彼女が拒否したことである。この夢をフリンクのように、この女性の願望の実現と解釈することは、不自然ではない。

三度乗馬に失敗し四度目にウマに乗ることに成功したということと、彼女の体験の一致、さらにウマと彼女の類似を考えあわすならば、この解釈は人々を納得させるにちがいない。この例では、たまたま、この女性がウマとアダ名されていたし、連想法によって乗馬が性交を意味することが明らかにされたのであるが、一般的に、象徴法を用いて解釈することは危険である。

われわれはシンボルの存在を否定するものではないし、これで解釈の見当をつけることは差支えないことであろう。しかし、右のような象徴法が全くとりとめのない解釈を出現させて、精神分析の信用を落していることも、確かである。

無意識の特性として、非論理性のほかに、思考が言語で表わされない点をあげることができる。夢のなかでは、すべてがコトバの代りに具体的な像で現われ、具体的であることは感覚的性質をもつことであるが、夢には、ふつう視覚的なものが多く、「夢をみる」といわれるのはこのためである。抽象的なものが具体的な形で表わされる。これをフロイトは戯曲化という。

「ある地位に就きたい」という場合に「自分の地面はこれまである」といって畑に立って手をひろげた夢が出現した例があったが、夢ではコトバで「就職したい」ということができず、演劇とくにパントマイムの形をとる。

無意識は、このようにコトバで表わされず、イメージで表わされるが、ペルグソンの言うように否定のイメージというものはないから、夢には否定が出てこない。フロイトは無意識のうちに否定の傾向かあることを認めないのではないが、夢として現われぬから「夢はノーを知らぬようだ」ということになる。さらに無意識の特性は無道徳的で原始的であることである。

それは自己中心的であり、快楽原理に支配されて、ただ快を求めて不快をさける傾向をしめし、コドモらしい性質および性的なものが多い。この点は次の抑圧に関する記事で語りたい。

無意識の性質(2-3)

レヴィンはボタンを買おうとして街に出たところ、街に出たということでボタンを買うのを忘れた、という例をあげて「ボタンを買おう」とする緊張が「街に出たこと」で解決されたとみなし(これは主観的の解釈であって、精神分析学派以外でも「了解」が行なわれている証拠である)、これを代償行為とよんだ。

これと類似のことが、夢のなかに常にみられる。すでに他の機会で述べた例のように、事業にのるかそるかという危機に当面し、大阪へゆく結果が自分の運命を決定するというようなとき、大阪へ出発する夢が、いつのまにか試験の夢になる。試験が大阪ゆきの代用になって睡眠中の緊張状態をこれで解消する。

このようにAと結合した感情がAから離れてBに向けられることを、フロイトは転位とよんだ。レヴィン心理学のかなりの部分がフロイト心理学を別の形式で書き加えたものと考えられるから、同じ考え方がみられるのぱ当然であるが、レヴィンの代償行為は転位といってよいであろう。

ところが転位は意識の世界では、それほど多く行なわれているものではない。それは無意識の世界の特徴である。おそらく、レヴィンの代償行為もいわばポカンとしている状態、目的が意識の中心にない場合にみられるのではなかろうか。

転位は一つの感情的な傾向がAの対象から離れてBに向かうことであった。このような転位は、この個人だけのもので、だれにも同じ転位がみられるわけでぱない。しかし、ときには一般的な転位すなわち、多くの人々に共通にみられる転位が存在する。

これが象徴化である。フロイトは、夢のなかにシンボル「象徴」とくに性的シンボルが出現することが多いことを認めた。

シンボルは二つの原因で生ずる。月経前に赤い色の夢をみるというように、多くの人に身体内部の感覚が同種の夢をおこす場合と、男性性器を棒とかサオとかで示すような民謡その他文化的な(その人の住む地域の生活様式の)習慣が夢に出現する場合である。

シンボルが存在することからフロイトは「連想法」とならんで「象徴法」によって夢などを探究しようとした。連想法による分析は時間が長くかかる。そこで夢のなかに出現したものを、何物かのシンボルと考えて解釈をする。夢に箱が出てくると女性性器とみなす、棒は男性性器、乗馬ぱ性交、湖は胎内・・・というように解釈する。

他の機会に紹介した次のフリンクの例をここに再録することは、象徴を説明するために適当であろう。

無意識の性質(1-3)

フロイトは「夢」を無意識を探るための王道だとみなした。夢の性質を観察すれば、無意識がどんなものかが、はっきりするというのである。夢についての考え方には、レルミットも指摘しているように、二つの流れがある。

第一は、夢はバラバラなもので、意味のないものという考えであり第二は、夢は一見、無意味のようだが、夢の構造を明らかにすれば意味がわかるという説である。

私は「夢」のうちで、この二つの立場を総合すべきものと主張したが、第二の立場がフロイトによって代表されていることはいうまでもない。

夢を分析して無意識の特性を検討すると、まず非論理性、非言語性、非道徳性を認めることができる。無意識の世界は、まず非論理的である。つぎつぎに出てくる像が時間や空間のワク(カテゴリー)に入れて整頓されていない。「AはAであって非Aでない」というような公理も、夢では通用しない。

カテゴリーが存在しない。夢では何もかも同時に生じ、Aの場所がいつの間にかBの場所でもある。フロイトはその非論理的な性質として、圧縮、転位、象徴化という現象を指摘した。これらは、「夢」で詳しく語ったから、ここでは、簡単に触れるにとどめよう。

夢のなかで二つまたはそれ以上のものが一緒になることがある。ヌエやスフィンクスのような場合もあるが、夢の原因をなす多くの願望が一つのものに結合して現われることがある。これが圧縮である。

無意識の世界

精神分析が、まず第一に、無意識の世界を探る「深層心理学」を意味することは先にのべた。意識のない状態のうちには、神経の伝導とか心臓の動きとか、完全に意識を離れた身体内の現象で、その結果「痛みの伝導でなく痛みという感覚、心臓の動きでなく、ドキドキする感覚」だけが意識されるものであるが、これは「意識外」とよんで区別することにする。意識外は全く意識に上ることのないものである。

これに反して、ここで無意識というのは、何らかの方法で意識されうるものをいう。後にのべるように、フロイトは思い出そうと努力して思い出しうるものを「前意識」として区別し、夢のような特別の状態以外には意識化されず、それ以外には、催眠法や精神分析法を用いなくては意識されえぬもののみを無意識とよんだ。

精神分析は、無意識を精神活動の最も重要なものとする。一つのことを考えている人は、その事だけを意識しているにすぎないし、ある物を見ている人はその物とその周囲のみを意識しているにすぎない。しかし、その人は無数に多くのことを連想し、思い出すことができる。ある瞬間に感じていること、わかっていること「意識内容」より、思い出しうること「想起可能な観念」のほうが多いことは確かであろう。しかも、ふつうでは思い出せぬものが催眠などで表面に出てくることがあるから、無意識の世界は、ある意味できわめて広いものである。

第二に、無意識的のものは、意識の原因となりうる。後催眠現象−催眠状態中に暗示を与えておくと、あとでこの暗示通りに行動する現象については前にのべたが、この場合、催眠をかけられた人は、実行するまで、そんな考えを自分が抱いていたことを意識しないし、やってしまってからも、それを意識していない。

われわれの行為の、ほんとうの動機は、いつも気づかれているとはかぎらない。ジャネも無意識を問題にして、心の奥底「意識下」の考えが、ヒステリーの場合などには、日常生活に影響を与えることを認めていた。しかし、ジャネの場合にはフロイトに比べると、無意識より意識のほうに、はるかに重点がおかれていた。

無意識は意識の残りであった。ジャネは意識をもった活動では、精神内部の多くの傾向は統一されているが、この統一する力が弱まったときに、心の内部の傾向が「分離」して、無意識的傾向かあらわれると考えたのである。

深層心理学の方法「病理法」(2-2)

フロイト学派がきわめてまれな例、異常な例を用いて正常の心理現象を解釈していることを、非難する者がある。「病理法」に親しまぬ人たちは、前に述べたミドリの虫を食べた子供モの例のような、極めて稀なものを土台にして心理現象を明らかにしようとすることを意外に感ずるであろう。

しかしながら、稀であるから科学の対象とならないというのは誤りである。実験室で行う知覚の実験は、極めて稀な条件の基にされている。稀なものであっても、否、
稀であるがゆえに純粋に、ある性質を誇張し、最もはっきりした「理想的な」形を示すといえよう。

レヴィンは、その心理学の方法を論じたとき、アリストテレス流の考え方とガリレオ流の考え方を比較した。アリストテレス流の考え方では、実験を一回、二回、三回・・・と繰り返し、いつも同様の結果がみられれば、ここに法則ができる。類似したことが起る回数が多いほど、その法則は確かなものとみなされる。

ガリレオ流の考え方では、何回も繰り返されるということ「頻度」で法則を証明するのでなく、彼の重力の法則の発見の場合に、たった一回、ピサの斜塔から石を落せば十分であったように、純粋の条件のもとで証明を行なうのである。レヴィンが心理学でも後者の考え方を採用すべきだと主張したことは一般に知られている。

純粋な場合は、二つの方法で得られる。一つは「実験」でこれをつくること、も一つは「極限」の場合を取り上げることである。そして、後者こそ病理法であり、精神分析の利用した方法にほかならない。

しかしながら病理法にも、また他の方法と同様に限界がある。異常者の心理には、正常者と程度の違いしかないものもあるが、病気のために全く新らしいものが出現することがある。

極限を示す場合があると同時に、これを越えた場合もある。精神分析学派に多い誤りは、これを混同することである。

病気またぱ病的状態の分類に、二つの種類があることを忘れてはならない。一つはヒステリーのような病気である。それは、普通の人聞にもみられる傾向が誇張されたものである。しばしば「ヒステリーは存在しない、ヒステリ。クな状態があるだけだ。」といわれるのはこのためであり、ヒステリーという概念は、理想概念(Idealbegriff)であって、正確にいえば、誰でも多かれ少なかれヒステリックなのである。

これに対して梅毒による進行麻障という精神病は、普通の人の性質を、ただ誇張しただけのものではない。「あの人間は多かれ少なかれ進行麻痺的だ。」などというのは、全く無意味である。この場合、進行麻痺というのは種類概念(Gattungsbegrff)である。

病理法を「病人の観察」を普通の人に当てはめるものと非難する人、これは精神分析に反対する人に多い。逆に病理法を無制限に使おうとする者、これは精神分析学派に多い。共にこの二つの概念の違いを認識していないのである。

深層心理学の方法「病理法」(1-2)

今日の人間の性格についての説で、クレッチマーの気質論は最も重要なものであるが、彼が人間の気質を分類するのに用いた方法は、精神病者を土台として、普通の人間の性格を分類することであった。遺伝的なものに関係があると思われる内因性精神病には、精神分裂病躁鬱病(そううつびょう)、テンカンが区別できるが、普通の人の気質もこれらの三種の精神病に応じて分裂質、躁鬱質、テンカン(粘着)質に区別できると考えたのである。

このように病的状態を通じて、ふつうの心理を研究する方法を「病理法」と称するが、精神分析ではこの方法が大幅に用いられている。具体的心理現象を対象とするとき、「発達法」(子供のときからの精神の発達の経過を辿ることによって、成長した精神を明らかにしようとする方法)と共に「病理法」を無視することが出来ないからである。

病理法はフランスで発達したもので、哲学者のメーヌ・ド・ビランによって主唱されたことは知られているが、社会学者のオーギュスト・コントは、当時の心理学が健康な大人の心理しか扱わぬことを非難し、哲学者で文学史家だったテーヌもこの方法を問題とした。そして、これを大成したのぱリボーであった。リボーは病理法についてこういう。

「病理法は、純粋の観察であると同時に実験にも関連している。病気というものは、事実、きわめて一定した条件のもとでは、人間の力では、成しえない方法で、自然自身によって成された、甚だしく微妙な実験である。」

実験は一定した条件の元で行なわれねばならぬが、病気という条件は、甚だ複雑であって、右のリボーの言葉に反対する人があるかも知れない。しかし、この方法は実験的方法や統計的方法と同様に、またそれ以上に、心理学にとって重要である。

多くの社会心理学者のうち独創的見解を述べている者は、異常心理に関心を示し病理法を用いた。ジャネ・デュマ、ブロンデルなどは、異常心理学者であると同時に社会心理学者であり、マクドーガルなどもこの方法を用いた社会心理学者である。精神分析は病理的方法か用いた心理学であって、異常心理を媒介にして、その説をきずいている。

深層心理学の方法「連想法」(2-2)

ポンドから最初に連想したのは「ドクター・ポンド」で、フリンク自身もドクターだが、事件は池「ポンド」の淵で起こったし、ピッチャーは投げる役割をする。

第二の連想は「インディアン池」だが、これはフリンクが石を投げて犬を死なせた池と同じ町にある。

第三の連想は、フィッシャーという人だが、この人もピッチャーであって投げることに関係した連想だし、フィッシャー(魚をとる人)が水に縁のあること、フィッシャーとピッチャーが発音の似ていることも考えられる。

第四の連想は、ポンド・エキスさらに、そのうちに含まれているハマメリスだが、これをピッチングのときに腕にこすりつけている。

第五の連想は、投げること、水に落ちること、といったものと関係しているが、自分自身をブタ(pig)と同視している。ところが、この犬は、ジップ(Gip)う名であったから、pigをさかさまにした名前であった。

第六の連想は、ポンドから再出発したものだがponder(考える)という言葉は(重さ)と関係がある(重さの単位ポンドと同じ語源)。

第七の連想は、ハムレットの言葉だが、この中にも投げるという意味にも用いられるcastという言葉が出てくる。

第八の連想は死んで井戸に投げこまれたブタの話であるが、このpig(ブタ)もGip(ジップという犬)と同様に殺されたし、水中に没した。

これらの事実は一体、何を示すのか。第一は、ポンドの忘却と何の関係もない連想だとみなす立場である。第二は、ポンドという名を忘れたのは、心的原因があって、右の連想には、すべて精神的意味があるという立場である。

ブロンデルは自由連想法で心の内面にあるシコリを見出しうるということを否定し、自由連想は、いわば散歩してゆくようなもので、一定の方向を持つものではないという。右側に恐い犬がいれば左の道に入り、左の道が悪いために右側の通路を選ぶようなものだというのである。分析学派は、これに反して散歩していても、おのずから足が美しい景色の方に向かうように、連想は一定の方向に向く傾向があり、連想が進むに従って根底にあるこの一定傾向があらわれるという。

ダルビエズは連想法が科学的に因果関係を探るものだということを示すために、関連の無意識という考えを提唱した。

山から川を連想する場合、なぜ川が意識のうちに出現したかは無意識的である。山から海が連想される可能性もあるし、山から森が連想されることも考えうるのに、どうして川が連想されたかは、自分では、わからないのである。山も意識されているし、川も意識されているが山と川の関連は意識されていない。

このように「関連の無意識」があって連想は意志によって行なわれるものでないから、山→川→海→太平洋・・・というように、連想を続けてゆく場合の連想の系列は、自然現象のように研究することができるというのである。

意志的な努力を用いて行なう思考の場合には、自然現象と違って、どう展開してゆくかは、そのとき、そのときで、いつも違うが自由連想では意志が入り込こまないから観念の続きき方は、海流とか気流とかの場合と同様に、ある程度安定したものとして扱える。さらに、事実、精神分析の経験によって、この連想の流れが、一定方向を持っていることが明らかになるというのが、精神分析学派の主張である。

多かれ少なかれ、このように、連想に方向があることは認めることができよう。しかし、連想がすべて意味のあるものばかりではなかろう。前例のGip→pigなど偶然的なものと考えてよいかも知れぬ。

最後に、これが表出の原因だということは、何によって知りうるか。ここに「自然現象の場合と同様の因果関係」とみなすことのできぬものがあるし、精神分析学派が無意識的に、主観的な解釈を持ち込んできていることは、否定できない。

前にのべたように了解心理学的方法も心理学においては、ある役割をもっている。ただ、それが「了解」であることを意識しておくべきであって、これを自然科学の「因果」と混同することは間違いであろう。